3月11日はシフトが休みの日。
午前中から出かけていたので、ちょうど14時頃車で帰宅途中にある西●に寄る。
そこのフードパークでクレープを頼んだ。 頼んだ直後、地震が起きた。
暫くじっとして店内の揺れの様子をみていた。みんなが同じように。
その最初の時点で揺れが強く、ちょっとおかしい、いつもとは違う、とは思ったけど、収まるどころか次第に異常な揺れが来た。
自動ドアのガラスがガシャガシャ鳴り、天井からパラパラと粉のようなものが落ちて来た。
これはヤバい! そう思って、たまたま場所が良かったのか、店内出入り口がすぐそばにあって、そこまで走って逃げた。
店内から同じように逃げる人が大勢いて、その中には当然従業員も居た。
それが一度目の揺れ。
そして、落ち着いたようだし、大丈夫そうだということで、お客さんもみんな次第に店内に戻り出す。私も戻ってまたクレープのお店に行った。店員さんも「今作りますね」と言って笑顔だった。
そしてその瞬間。 とんでも無い揺れが来た。
しばらくその場で立ってたけれど、ほんの1メートル先の辺りで目の前に何か天井から落ちて来た。
見れば、それは天井板だ。
もうこれは不味いと思い、一目散に外へ出た。外へ出るために走っていたけれど、床が揺れるのでよろよろする。
とりあえず建物から離れた自転車置き場の柱にしがみついた。
しがみつかないと立っていられないからだ。
しがみ付きながら、家に電話する。繋がらない。何度かけても繋がらない。
これはますます不味い。家には母が一人だ。周りを見るとみんな家に電話を掛けているようだ。
そして車で大急ぎで駐車場を出て行く人達。
とりあえず揺れが収まるけれど、それでもひっきりなしに来る地震。
またようやく収まったかと思うと、中に戻っていく人達。私もとりあえず返金だけしてもらおうと中に入った。
すると出入り口から凄い音が。見上げたら、二階にあがるエスカレーターが滝になっていた。
二階のエスカレーター前、頭上にある火災報知機が誤作動して天井から激しくシャワーが出ていた。
その勢いのまま停止したエスカレーターの上から水が滝になって流れていたのだった。
店内を見ると、商品が床に散乱しめちゃくちゃだった。 とてもじゃないが、店内に入る勇気が無かった。
母も心配だし。どうする。
すると店員が「今日は閉店します!危険ですので店内には入らないで下さい」と大声で叫んでいた。
店内でも奥の方から「誰か残っている人はいませんか?!」と叫び声がした。
私はもうこれ以上ここにいられないと思い、車へ走った。
早く帰らないと。
本当なら店員を捕まえたかったけど、店員が見つからず。帰ることも言えなかった。
ちなみにレジもみんなカゴに入れた商品をそこに置きっぱなしで帰宅していた。
私は車に乗り急いで帰宅する。その頃はまだ信号機は動いていた。
走っている間、車体が異常に左右に揺れる。
信号で止まると、その信号機や電信柱がまるでちくわみたいに大きく揺れている。
家に向かう間、運転中ほとんど無意識に何度も呟いていた。
「落ち着け、落ち着け、落ち着け……」呟きながら手が震え続ける。
本当に異常なことが起きていると思った。
家に帰る途中、激しい揺れで車がバウンドした。停車してサイドブレーキをひく。見
れば周りもみんな停車している。 おさまるとまた走り出す。
漸く到着する。庭には瓦が散乱していた。
母を大声で呼んだ。すると庭のすみから声がした。良かった、無事だ。
余震がおさまらないので、室内には入らず庭で携帯のテレビを見る。映った。
東北が大変なことになっていると分かった。
職場にも電話するけど、全く繋がらない。
職場の状況もだけど、転勤してきてる一人暮らしの後輩が心配だ。
もう一度ワンセグテレビを見るが、とうとう映らなくなった。家の中も停電。
このままだと誰とも連絡が取れないかもしれない。
ハッと思い付き、携帯の災害用伝言サービスサイトへ。
伝言サイトなんて誰も見ないかもしれない。
でも今、自分や家族が無事だと伝えられる手段はこれしかない。
幸い電話は繋がらないのに、ネットには繋がる。メールは届くか分からない。
だからとにかく無事だという伝言だけでもと思い、書いた。
それが正しかったと、後になって思った。
友人達から「伝言サービス見たよ!無事でよかった!」と連絡が来た時にはこのサービスは有効なんだと実感出来た。
メールも電話も繋がらない、でももしかしたら私が伝言を残しているかもしれないと思ってサービスで私のTEL番号で調べてくれたそうです。
そんな友人達に本当に今も感謝しています。
さぁこれからどうすると思った時、病院に行ってきてと母が。
実はその時、父が手術を受けて入院してるところで。
術後11日目だった。今まで毎日行ってたし、病院は大丈夫だろうと思うが、本人のことも気になるし、自分達の状況も伝えなきゃと いうことで病院へ。
行ってみたらとんでもないことになっていた。
病院の前にある二車線の大きな交差点の信号が停止していた。
みんな凄いなぁと思うんだけど、よくあの混乱の中、あの交差点を事故無しに通り抜けられたものだと今でも自分とみんなに感心します。
そして、いざ到着してみると敷地内に入る前に門前払いされた。
「今日は病院も閉鎖しています。一般の方は入れません!」唖然とした。
すぐそこに居るのに家族に会えないってなに?「ちょっと会うだけです!」「駄目です。お帰り下さい」車の窓を開けてずらっと並んだ看護師さん達と言い合いました。
「駄目」の一点ばりで、もうここに車捨てて自分の足で走って突入してやろうかと思ったけれど、職場も気になるし、見に行きたかったので、もう仕方なくまた同じ交差点を通って帰ってきました。
ちなみに病院はベットが揺れて患者を乗せたベットが床の上をすべり、すごかったらしい。
しかし電気も付いていたし食事もきちんと出てきたそうだ。
やはり病院は安心だった。
父は自分のことより家をとても心配していた。
帰るときにも信号には警察もいないから、みんな本当に慎重に運転してた。
家と病院は普通なら車で片道10分なのに、往復で1時間。
携帯も繋がらないし、父親とも連絡取れないし、職場にも繋がらない。信号も動かない。
なんとか帰宅して、考えたことは職場です。
ちょうどその時点で16時ころだったかな。今から行って、大丈夫か。
信号は恐らくもうどこも動いていないだろう。
ここから職場に大きな信号がいくつある?信号を避けるのは無理だ。
ただでさえ信号が使えない場所で通勤に30分。
今行くと道は真っ暗になり、かなり危険だと判断。
どうする、どうする。と散々考え、その日は結局自宅に居た。
それに私が職場へ行くと、母がまた一人になり、家族みんな病院、家、職場とバラバラになってしまう。
もし今度強い地震が来たら、そう思うとやはり行けなかった。
翌日いつもよりずっと早めに出勤。
行ってみたら、書き置きがあって、みんな無事で職場も点検しましたとメッセージが。
良かった。みんな無事で良かった。それに昨日は出勤しないという判断で良かったと。
実は当日の20時頃になってようやく後輩と連絡が取れて状況は聞いていたんだけど、それでも実際に職場の様子を見て、安堵した。
当日の電気復旧は確か20時頃だったかと思う。
家の中はめちゃくちゃでタイルもはがれ、壁もはがれ。水も出ない。本当に大変な一日でした。
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ただ、私はまだずっと良いんです。
身近で亡くなった方も居ないですし。
ですが私を始め本当に心配した方が居て。
息子さんが気仙沼の工場に居て、連絡が取れないというお父さんです。
あの火の海の映像を見て、そのお父さんには言えませんでしたが、後になって私も職場のみんなもほとんど絶望 的な気持ちになっていたことを知りました。
息子の連絡を待つから休むという連絡を貰うたびに分かりましたとしか言えなかった日々。
息子が気仙沼に転勤になったんだ、引っ越しの手伝いで行かなきゃならないんだと笑って話していたのは半年前 でした。
半年後にこんなことになるとは、誰も予想も出来ません。
そんな震災から1週間後。息子から連絡が来たとそのお父さんから連絡が。
もう…みんな笑顔です。良かった!本当に良かった!良く生きててくれた!頑張った!
みんなでそう言いました。
その息子さんから話を聞いたお父さんが、職場で気仙沼での体験を聞かせてくれました。
息子さんは建物の屋上に避難していて、映像の通り、目の前が火の海だったそうです。
他にもツライ体験をしたそうで、息子さんもその被災した時のことはしばらく語らなかったそうです。
幸い怪我も無く、元気にしているそうです。
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震災少し後、地元のショッピングモールで買い物をしている時に、また大きな地震がありました。
その時近くにいた店員さん。
「な、なに!これ凄い揺れてる!あの日もこうだったんですか?!」
東京からヘルプで来ていた従業員さんでした。本当に驚いていました。
やはり温度差は感じました。被災した人と、していない人の間で。
震災後しばらくして「日本経済を廻そう」と誰かが言いだして広がった動きはまさにそれだった。
ちなみに「経済」という言葉の意味は下記です。
■人間の生活に必要な財貨・サービスを生産・分配・消費する活動。また、それらを通じて形成される社会関係 。金銭のやりくり。
ということは、そこに人間がいる限り経済は動くんです。
経済は流動的です。常に何かの要因で変化する。変化はするけれど、人間がいれば動くんですよ。
それをわざわざ「日本経済をまわす」なんて最初に言い出したのは一体誰なのか。
震災後のツイッターとかブログや記事にはそんなものがたくさん溢れてた。
本当に意味が分かってみんな使ってたのか疑問です。
私の住んでいる場所や職場は震度6でした。
私達の住むところでさえ、それです。
東北はどれだけの恐怖だったろうと、思うばかりです。
一番最近だと、昨日です。
2012年3月10日。
緊急地震速報が携帯電話から発せられました。
あの音を聞くたび、身構えます。真夜中の2時30分。
あのウーッウーッウーッという唸り声のような警報は、どんなに寝ていても目が覚めます。
最近精度が増して去年よりも確かに大きな地震の前、というか直前に来ます。
それでも慣れたとは言いません。必ず身構えます。
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この日記には以前書いた気がするけど、ガソリンを入れるために2時間近く並びました。
退院したての父を駆り出し、所有しているほかの車に私が出勤している間に並んで給油してきてくれと頼みました。
父も1時間近く車内で待ったそうです。
今でも緊急地震速報や地震が起こると、まず火を消します。今でもそうです。
あの日のことは、忘れません。
家族も身近な人の家族もみんな無事でよかった。
今日、あの時間に黙とうしました。どうか東北に日常が一日でも早く戻りますように。
写メは恐らく捨てることは無いだろう当日のクレープのレシートです。
久しぶりに見たら文字が擦れていました。
せめて写真に残そうと思います。
携帯からだと見えないかな。PCからだとかろうじて日時が読めるかと思います。
3月11日14:47って書いてあります。
このレシートと一緒に給油したガソリンのレシートも保存してあります。
ずっと仕舞っておこうと思います。
忘れないために。
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